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新刊:『吉行あぐり102歳のことば』=石寒太・著
二人の芥川賞作家、吉行淳之介と吉行理恵、また優れて個性的な女優吉行和子を生み育てた吉行あぐり。一方で彼女は、十七歳で山野千枝子の弟子として修業し、美容界の草分けとして美容師の仕事に生きた、実に先端的な自立した女性でもある。満百二歳を迎えた吉行あぐりの言葉は、生きにくい複雑な現代社会へのメッセージだと著者は語る。
「人間は、生まれたときから死ぬ日が決まっているんだろうと思います」「意固地な私も百歳を越えて、いくらか丸くなりました」「みるみる溶けていく。氷を見ていると、氷が溶けるように人間も溶けたらいいなあと思うの。あの世に行くとき、お葬式もしなくてすむし、いいじゃないですかぁ」「淳には兵隊さんの格好など似合いません」(
「人間は、生まれたときから死ぬ日が決まっているんだろうと思います」「意固地な私も百歳を越えて、いくらか丸くなりました」「みるみる溶けていく。氷を見ていると、氷が溶けるように人間も溶けたらいいなあと思うの。あの世に行くとき、お葬式もしなくてすむし、いいじゃないですかぁ」「淳には兵隊さんの格好など似合いません」(
海部宣男・評 『ブラックホールを見つけた男』=アーサー・I・ミラー著
◇「空間の穴」予言から確認までの大波乱
ブラックホール。この不思議な天体にぴったりの名をつけたのはこの本にも出てくる才気煥発(かんぱつ)のホイーラーで、一九六七年である。ブラックホールの存在が観測で確認されるのはその数年後だ。とはいえホイーラー、最初はそんなものが自然界にあるはずがないと、ブラックホールの存在を主張したオッペンハイマーと激しく争った。それくらい、ブラックホールはとんでもないものだった。
その三〇年ほど前の一九三五年一月十一日、後に「科学史の上でも異常」といわれる出来事から、この本は始まる。場所はロンドン、名だたる研究者でいつも満員の王立天文学協会の例会である。天体物理学の第一人者と自他共に認めるケンブリッジ大学教授、アーサー・エディントンその人が、インドから出てきて間もない若き天才チャンドラセカールがそこで発表した論文をあざ笑い、完膚なきまでに否定したのである。チャンドラセカールには、反論の機会すら与えられなかった。
いま天文学を学ぶ学生には、恒星の内部構造や放射伝播(でんぱ)に関するチャンドラセカールの重厚な本はバイブルだ。エディントンも神話に列せられる科学者で、ほぼ一人で天体物理学を作り上げたといわれる。ナイトに叙せられ、イギリス、いや世界の天体物理学に君臨した。天文学にはノーベル賞はないが(過去の宇宙関連の業績での受賞は物理学賞)、天体物理学の研究に与えられるエディントン・メダルは、それに準じる賞とされる。
エディントンは、その後もチャンドラセカールの論文や著書をしつこく攻撃する。やがて世界に名を馳(は)せるチャンドラセカールだが、生涯トラウマが付きまとったと、著者は分析している。論敵への容赦のなさで怖(おそ)れられたエディントンではあるが、なぜ将来ある優秀な若者にかくも残酷な仕打ちをしたのか。それは本書の大きなテーマの一つだから、ここでは触れまい。ともあれその背景には、ある重さを越えた星は自重でどこまでもつぶれるというチャンドラセカールの論文が導く結論への、頭からの否定があった。
ところで、この本の和訳タイトルは魅力的だが正確ではない(原書名はThe Empire of the Stars)。チャンドラセカールはブラックホールを「見つけた」のではなく、その存在を予言した最初の人なのである。チャンドラ(これが彼の通称)は十八歳のとき論文をケンブリッジのファウラーに送り、『王立協会報』に「かなり重要な論文」として掲載される。胸を膨らませてイギリスに渡る船上で、非常に高密度まで縮んだ星である白色矮星(はくしょくわいせい)の質量には上限があるはずだという着想を得て、「簡単な計算で」証明する。これが、重い星には壊滅的な終りがあり得るという画期的な考えの、最初のものだった。ケンブリッジで博士号を取ってその論文を仕上げ、満を持して臨んだ王立天文協会の例会で、エディントンの容赦ない「つぶし」に出会ったのである。
本書の一貫した主人公は、チャンドラセカールだ。同時に、このインド出身の天才的若者が、科学の現場での不当な仕打ちに深く傷つきながらも優れた科学者として歩んだ、言い換えれば第一線の激しい競争の中の科学者の人生が、主人公である。さらに言えば、チャンドラをはじめ数多くの天才たちが挑み半世紀かけてじりじりと理解していった、恒星の最後の運命についての物語でもある。その三つが絡み合い、息もつかせない展開を見せる。何気なく手にとって読み始めたら止まらなくなる類(たぐ)いの本なのである。
ある質量(「チャンドラセカール限界」として知られる)以上の白色矮星は自重でどこまでも縮んでしまうというチャンドラの予見は、そのままでは実現しなかった。中性子が発見されたことで、さらに高密度の中性子星の存在が予想されたからだ。それは一九六〇年代に、奇妙な電波パルスを放つパルサーとして発見された。大きな星がつぶれて超新星として爆発するとき、中心に中性子星が残されるのである。だがもっと大質量の星では、中性子では支えきれずにどこまでも崩壊し、空間の穴=ブラックホールになる。こうした理解が確立するまでには物理学と観測の進歩、多くの科学者たちの努力があった。時まさに、物理学・天体物理学の神話時代。登場する幾多の科学者は、まぶしい神々だ。
ついにブラックホールが発見されたのは一九七〇年代で、チャンドラセカールは一九八三年にノーベル賞を受賞する。若き日のチャンドラの予見は、当時は予想も出来なかった中性子星と超新星という二つのステップを越えて、ようやく実現された。
著者はイギリスの科学史・科学哲学の教授で、平易な筆の運びの中にも科学的記述は正確。つぶれて超新星爆発を起こす星の中で起きる一瞬の現象を、スローモーションでも見るように解説してくれる。それ以上に、科学のフロンティアが解き明かされてゆく現場のもどかしいまでの混乱、生の人間の意地と主張がからみあう息吹を、周到な調査と資料を通して描き切った。(阪本芳久・訳)

ブラックホール。この不思議な天体にぴったりの名をつけたのはこの本にも出てくる才気煥発(かんぱつ)のホイーラーで、一九六七年である。ブラックホールの存在が観測で確認されるのはその数年後だ。とはいえホイーラー、最初はそんなものが自然界にあるはずがないと、ブラックホールの存在を主張したオッペンハイマーと激しく争った。それくらい、ブラックホールはとんでもないものだった。
その三〇年ほど前の一九三五年一月十一日、後に「科学史の上でも異常」といわれる出来事から、この本は始まる。場所はロンドン、名だたる研究者でいつも満員の王立天文学協会の例会である。天体物理学の第一人者と自他共に認めるケンブリッジ大学教授、アーサー・エディントンその人が、インドから出てきて間もない若き天才チャンドラセカールがそこで発表した論文をあざ笑い、完膚なきまでに否定したのである。チャンドラセカールには、反論の機会すら与えられなかった。
いま天文学を学ぶ学生には、恒星の内部構造や放射伝播(でんぱ)に関するチャンドラセカールの重厚な本はバイブルだ。エディントンも神話に列せられる科学者で、ほぼ一人で天体物理学を作り上げたといわれる。ナイトに叙せられ、イギリス、いや世界の天体物理学に君臨した。天文学にはノーベル賞はないが(過去の宇宙関連の業績での受賞は物理学賞)、天体物理学の研究に与えられるエディントン・メダルは、それに準じる賞とされる。
エディントンは、その後もチャンドラセカールの論文や著書をしつこく攻撃する。やがて世界に名を馳(は)せるチャンドラセカールだが、生涯トラウマが付きまとったと、著者は分析している。論敵への容赦のなさで怖(おそ)れられたエディントンではあるが、なぜ将来ある優秀な若者にかくも残酷な仕打ちをしたのか。それは本書の大きなテーマの一つだから、ここでは触れまい。ともあれその背景には、ある重さを越えた星は自重でどこまでもつぶれるというチャンドラセカールの論文が導く結論への、頭からの否定があった。
ところで、この本の和訳タイトルは魅力的だが正確ではない(原書名はThe Empire of the Stars)。チャンドラセカールはブラックホールを「見つけた」のではなく、その存在を予言した最初の人なのである。チャンドラ(これが彼の通称)は十八歳のとき論文をケンブリッジのファウラーに送り、『王立協会報』に「かなり重要な論文」として掲載される。胸を膨らませてイギリスに渡る船上で、非常に高密度まで縮んだ星である白色矮星(はくしょくわいせい)の質量には上限があるはずだという着想を得て、「簡単な計算で」証明する。これが、重い星には壊滅的な終りがあり得るという画期的な考えの、最初のものだった。ケンブリッジで博士号を取ってその論文を仕上げ、満を持して臨んだ王立天文協会の例会で、エディントンの容赦ない「つぶし」に出会ったのである。
本書の一貫した主人公は、チャンドラセカールだ。同時に、このインド出身の天才的若者が、科学の現場での不当な仕打ちに深く傷つきながらも優れた科学者として歩んだ、言い換えれば第一線の激しい競争の中の科学者の人生が、主人公である。さらに言えば、チャンドラをはじめ数多くの天才たちが挑み半世紀かけてじりじりと理解していった、恒星の最後の運命についての物語でもある。その三つが絡み合い、息もつかせない展開を見せる。何気なく手にとって読み始めたら止まらなくなる類(たぐ)いの本なのである。
ある質量(「チャンドラセカール限界」として知られる)以上の白色矮星は自重でどこまでも縮んでしまうというチャンドラの予見は、そのままでは実現しなかった。中性子が発見されたことで、さらに高密度の中性子星の存在が予想されたからだ。それは一九六〇年代に、奇妙な電波パルスを放つパルサーとして発見された。大きな星がつぶれて超新星として爆発するとき、中心に中性子星が残されるのである。だがもっと大質量の星では、中性子では支えきれずにどこまでも崩壊し、空間の穴=ブラックホールになる。こうした理解が確立するまでには物理学と観測の進歩、多くの科学者たちの努力があった。時まさに、物理学・天体物理学の神話時代。登場する幾多の科学者は、まぶしい神々だ。
ついにブラックホールが発見されたのは一九七〇年代で、チャンドラセカールは一九八三年にノーベル賞を受賞する。若き日のチャンドラの予見は、当時は予想も出来なかった中性子星と超新星という二つのステップを越えて、ようやく実現された。
著者はイギリスの科学史・科学哲学の教授で、平易な筆の運びの中にも科学的記述は正確。つぶれて超新星爆発を起こす星の中で起きる一瞬の現象を、スローモーションでも見るように解説してくれる。それ以上に、科学のフロンティアが解き明かされてゆく現場のもどかしいまでの混乱、生の人間の意地と主張がからみあう息吹を、周到な調査と資料を通して描き切った。(阪本芳久・訳)

- 作者: ブライアン・グリーン
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2009/02/23
- メディア: 単行本
伊東光晴・評 『新しい労働社会』=濱口桂一郎・著
◇日本の労働市場の法的特質とは
労働法の研究者は、個々の労働裁判については発言するが、日本の労働市場の特質について発言するのは珍しい。この本は序章で、これを試みている。
欧米の雇用契約であったならば、どのような仕事なのか、という働く内容(職務--job)とその報酬を明示し、雇用契約を行う。ところが日本ではこのような契約はなく、採用とは、会社の一員になるという暗黙の契約であり、この契約の違いから、長期雇用、年功賃金制、企業別組合、欧米にない人事課、四月のいっせい入社、定年制、解雇手続の違いなど、今まで労働経済学者が明らかにしてきたものを、法的に--なかなか見事に説明していく。
国際比較を交え、経済学者の実証的研究を無視するところが心にくい。この分野は大河内シューレ(東大教授、故大河内一男氏、故氏原正治郎氏などの流れ)によって開拓されたものであるが、これらの労働経済学者の批判的見解が聞きたい。
第一章以下は、たしかに労働法学者の筆である。
まず新聞紙上を賑(にぎ)わした、マクドナルドの店長は“管理職にあらず”という裁判である。
労働基準法上の管理職とは何か--課長、次長になったからといって、この意味での管理職ではない。正確には「経営者と一体的な立場にある者」だというのである。マクドナルドの支店では正規社員は店長一人、他はアルバイト。こんな支店長が経営者と一体的な立場にあるわけはない。
著者はここで二つのことを述べている。第一は、労働基準法上の管理職でない者が管理職としてあつかわれ、労働時間規制の対象外となって、長時間労働をしている日本の現実--それを推し進めようとしている経団連への批判。
第二はマクドナルド裁判は、あまりにも長時間労働である現実を是正してほしいという本来の訴えを時間外手当の支給にすりかえていたとしか思えない新聞報道への批判。
長時間勤務を改めるべきであるとする著者の考えは、二〇〇五年の経団連の提言--ホワイトカラーエグゼンプション--にも向けられる。エグゼンプションとは適用除外ということで、主任手当など役職手当を支給するかわりに労働時間の規制をはずそうというものである。
こうした働く者の生活重視の著者の考えは、最高裁の判決をも批判させる。高齢の母と、保育士の妻と二歳児を抱えた労働者が、遠距離配転を拒んだところ、会社が懲戒解雇にしたことを合憲とした判決である。私の知るかぎりでも、教授としてあるまじき行動をした者を懲戒解雇した大学の決定を最高裁は無効としている。要するにいずれも市民の常識では理解できないものである。
生活保護の給付水準に対する日本の最低賃金の低さは、よく知られているが、その理由を著者は、最低賃金がアルバイトとパートという家計補助労働の対価を対象にしていたことによるとし、それがワーキングプア問題の基礎にあるとしている。
ではどう改めるのか。それがよくわからない。
派遣労働問題を含め、その根本に戦後労働政策の基本となっていた職業安定法第三二条--利益をともなう職業紹介を認めないという原則が崩壊したことが、このような事態を招いたのではないか。
最終章で、著者は、株式会社は株主だけのものではなく、従業員や利害関係者のことも考えるステークホルダー・カンパニーであるべきだとしている。適度に保守的、適度に進歩的、それがこの本の視点である。

労働法の研究者は、個々の労働裁判については発言するが、日本の労働市場の特質について発言するのは珍しい。この本は序章で、これを試みている。
欧米の雇用契約であったならば、どのような仕事なのか、という働く内容(職務--job)とその報酬を明示し、雇用契約を行う。ところが日本ではこのような契約はなく、採用とは、会社の一員になるという暗黙の契約であり、この契約の違いから、長期雇用、年功賃金制、企業別組合、欧米にない人事課、四月のいっせい入社、定年制、解雇手続の違いなど、今まで労働経済学者が明らかにしてきたものを、法的に--なかなか見事に説明していく。
国際比較を交え、経済学者の実証的研究を無視するところが心にくい。この分野は大河内シューレ(東大教授、故大河内一男氏、故氏原正治郎氏などの流れ)によって開拓されたものであるが、これらの労働経済学者の批判的見解が聞きたい。
第一章以下は、たしかに労働法学者の筆である。
まず新聞紙上を賑(にぎ)わした、マクドナルドの店長は“管理職にあらず”という裁判である。
労働基準法上の管理職とは何か--課長、次長になったからといって、この意味での管理職ではない。正確には「経営者と一体的な立場にある者」だというのである。マクドナルドの支店では正規社員は店長一人、他はアルバイト。こんな支店長が経営者と一体的な立場にあるわけはない。
著者はここで二つのことを述べている。第一は、労働基準法上の管理職でない者が管理職としてあつかわれ、労働時間規制の対象外となって、長時間労働をしている日本の現実--それを推し進めようとしている経団連への批判。
第二はマクドナルド裁判は、あまりにも長時間労働である現実を是正してほしいという本来の訴えを時間外手当の支給にすりかえていたとしか思えない新聞報道への批判。
長時間勤務を改めるべきであるとする著者の考えは、二〇〇五年の経団連の提言--ホワイトカラーエグゼンプション--にも向けられる。エグゼンプションとは適用除外ということで、主任手当など役職手当を支給するかわりに労働時間の規制をはずそうというものである。
こうした働く者の生活重視の著者の考えは、最高裁の判決をも批判させる。高齢の母と、保育士の妻と二歳児を抱えた労働者が、遠距離配転を拒んだところ、会社が懲戒解雇にしたことを合憲とした判決である。私の知るかぎりでも、教授としてあるまじき行動をした者を懲戒解雇した大学の決定を最高裁は無効としている。要するにいずれも市民の常識では理解できないものである。
生活保護の給付水準に対する日本の最低賃金の低さは、よく知られているが、その理由を著者は、最低賃金がアルバイトとパートという家計補助労働の対価を対象にしていたことによるとし、それがワーキングプア問題の基礎にあるとしている。
ではどう改めるのか。それがよくわからない。
派遣労働問題を含め、その根本に戦後労働政策の基本となっていた職業安定法第三二条--利益をともなう職業紹介を認めないという原則が崩壊したことが、このような事態を招いたのではないか。
最終章で、著者は、株式会社は株主だけのものではなく、従業員や利害関係者のことも考えるステークホルダー・カンパニーであるべきだとしている。適度に保守的、適度に進歩的、それがこの本の視点である。

働くということ - グローバル化と労働の新しい意味 (中公新書)
- 作者: ロナルド・ドーア
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2005/04/25
- メディア: 新書
新刊:『薄暮』=篠田節子・著
◇『薄暮(はくぼ)』
(日本経済新聞出版社・1890円)
サブプライムローン問題に端を発した金融危機はいまや未曽有の経済危機となって世界を覆う。格付会社など詐欺同然だが、この仕組は芸術の世界に露(あら)わ。美の評価は難しい。絶対基準など存在しないからだ。前作『仮想儀礼』で新興宗教を描いて現代社会の矛盾を浮彫りにした著者が、今回は絵画市場を主題にあえていえば経済危機の本質を抉(えぐ)り出す。
「芸術のための芸術」に虚妄を見た画家・宮嶋哲朗は画壇を否定、地方で活動し、無名のまま窮死する。夫の天才を信じる妻、彼女を助ける隣人。物語は、宮嶋の絵が脚光を浴びるきっかけを作った雑誌の編集者の視点から語られる。推理小説の側面もあって、推理とともに絵画市場の仕組と地方都市の困窮が浮かび上がる。洗練された松本清張。
(日本経済新聞出版社・1890円)
サブプライムローン問題に端を発した金融危機はいまや未曽有の経済危機となって世界を覆う。格付会社など詐欺同然だが、この仕組は芸術の世界に露(あら)わ。美の評価は難しい。絶対基準など存在しないからだ。前作『仮想儀礼』で新興宗教を描いて現代社会の矛盾を浮彫りにした著者が、今回は絵画市場を主題にあえていえば経済危機の本質を抉(えぐ)り出す。
「芸術のための芸術」に虚妄を見た画家・宮嶋哲朗は画壇を否定、地方で活動し、無名のまま窮死する。夫の天才を信じる妻、彼女を助ける隣人。物語は、宮嶋の絵が脚光を浴びるきっかけを作った雑誌の編集者の視点から語られる。推理小説の側面もあって、推理とともに絵画市場の仕組と地方都市の困窮が浮かび上がる。洗練された松本清張。
新刊:『鑑賞 経営寓句』=高橋潤二郎・著
山本健吉は挨拶(あいさつ)と滑稽(こっけい)を俳諧の二大機能としたが、高橋潤二郎はさらに加うるに寓言(ぐうげん)という性格をもってする。芭蕉は「物いへば唇さむし秋の風」をはじめ比喩(ひゆ)的な句をたくさん詠んだが、この調子で人生の教訓を五七五で述べることは社会に役立ったと指摘するのである。
正岡子規は美以外の要素を捨てて、俳句を純粋な文学にしようと努力した。しかし山本や高橋はもっと広い視野で俳諧をとらえようとする。大人っぽいものの見方だし、文学史的にも正しい。
数理・計量地理学の権威の著書で、いわば隠し芸だけれど、この慶應義塾大学名誉教授は、よく詩を解するし、筆が立つ。ここ数年の俳諧論のなかで最も刺激の強い本である。(
正岡子規は美以外の要素を捨てて、俳句を純粋な文学にしようと努力した。しかし山本や高橋はもっと広い視野で俳諧をとらえようとする。大人っぽいものの見方だし、文学史的にも正しい。
数理・計量地理学の権威の著書で、いわば隠し芸だけれど、この慶應義塾大学名誉教授は、よく詩を解するし、筆が立つ。ここ数年の俳諧論のなかで最も刺激の強い本である。(
本と人:『詩の本』 著者・谷川俊太郎さん
◇切り出した鉱石のように
最新詩集のタイトルは端的だ。白いカバーの中央をだ円にくり抜き、深紅の本体と題字をのぞかせた菊地信義さんの装丁と相まって、印象はひときわ鮮烈。しかし「作者にすれば『詩という役にも立たない言葉の本ですが、買ってくださるんですか』と、読者におずおずお伺いを立てる」心境なのだという。
三好達治に認められ、二十歳そこそこで『二十億光年の孤独』を出版したのが1952年。以来一貫して、読者に語り掛けるように詩を書いてきた。今回の新サービスは“詞書(ことばがき)”に似た注釈を、ところどころに加えたこと。「詩になじみがない人にも親しんでもらえるかなと、助平心が働きました」。「道を歩いていると」と題された7編の連作には「それぞれに近現代詩の名作へのヒントが隠されている……当ててもらって遊ぶのは楽しい」といった具合。“本歌取り”の伝統も生かされている。
詩作を天職と思えるようになったのは、中年以降という。いま、言葉は降ってくるのでなく、絞り出すのでもなく、わき上がる。「大地に張った根が水を吸い上げ、葉を茂らせて実りをもたらすように……なんて比喩(ひゆ)は気恥ずかしいけれど、それが実感です。果実だから意味を問うより、味わってほしいな」
本書出版と時を同じくして、第2詩集『62のソネット』が集英社文庫に、84年刊行の『詩めくり』がちくま文庫に入った。ネット時代の若者に、「本」の形で「詩」を届けやすくなるのがうれしいという。「詩は本に載り質感を得て、物になる。切り出した鉱石のようにそこにあるのがいい詩だと、ぼくは思っています。芭蕉の句みたいに、いつも新しく」
<ぼくの新しい詩が読みたいんだって?/ありがとう/でも新しい詩ならいつだって/きみのまわりに漂ってるよ>
(「新しい詩」より)


最新詩集のタイトルは端的だ。白いカバーの中央をだ円にくり抜き、深紅の本体と題字をのぞかせた菊地信義さんの装丁と相まって、印象はひときわ鮮烈。しかし「作者にすれば『詩という役にも立たない言葉の本ですが、買ってくださるんですか』と、読者におずおずお伺いを立てる」心境なのだという。
三好達治に認められ、二十歳そこそこで『二十億光年の孤独』を出版したのが1952年。以来一貫して、読者に語り掛けるように詩を書いてきた。今回の新サービスは“詞書(ことばがき)”に似た注釈を、ところどころに加えたこと。「詩になじみがない人にも親しんでもらえるかなと、助平心が働きました」。「道を歩いていると」と題された7編の連作には「それぞれに近現代詩の名作へのヒントが隠されている……当ててもらって遊ぶのは楽しい」といった具合。“本歌取り”の伝統も生かされている。
詩作を天職と思えるようになったのは、中年以降という。いま、言葉は降ってくるのでなく、絞り出すのでもなく、わき上がる。「大地に張った根が水を吸い上げ、葉を茂らせて実りをもたらすように……なんて比喩(ひゆ)は気恥ずかしいけれど、それが実感です。果実だから意味を問うより、味わってほしいな」
本書出版と時を同じくして、第2詩集『62のソネット』が集英社文庫に、84年刊行の『詩めくり』がちくま文庫に入った。ネット時代の若者に、「本」の形で「詩」を届けやすくなるのがうれしいという。「詩は本に載り質感を得て、物になる。切り出した鉱石のようにそこにあるのがいい詩だと、ぼくは思っています。芭蕉の句みたいに、いつも新しく」
<ぼくの新しい詩が読みたいんだって?/ありがとう/でも新しい詩ならいつだって/きみのまわりに漂ってるよ>
(「新しい詩」より)

元気がでる詩の本 元気がでる詩4年生 (元気が出る詩の本 (4))
- 作者:
- 出版社/メーカー: 理論社
- 発売日: 2002/03
- メディア: 単行本

きみはなまいきなかみさまだ―谷川俊太郎と子どもたち (子どもの詩の絵本)
- 作者: 谷川 俊太郎
- 出版社/メーカー: 三晃書房
- 発売日: 2009/06
- メディア: 大型本
鹿島茂・評 『ナポレオン帝国』=ジェフリー・エリス著
◇「世界が一変」ロマンチック史観の解体
歴史のアマチュアとして大いに不満なのは、日本には、様々な学説を要約・整理して「いま、どんな学説が台頭し、新たな論点を提起しているのか」ということを素人にもわかりやすく解説してくれる学術的概説書がないことである。狭い範囲の専門書か、さもなければ通俗概説書しかない。この点、英語圏には、ロバート・ダーントンのように様々な学説の解説を行いながら、その比較・判定を通して、歴史の問題点を的確に教示してくれる歴史家がいるので、たいへんにありがたい。著者もそうした一人らしく、ナポレオン帝国は果たしてフランスに根源的な変化をもたらしたのか否かという点について、軍隊、文官組織、法制、経済、文化などの面でのバランス・シートを作りあげ、ナポレオン研究の現状についての的確な見取り図を書き上げている。
その結論は、ナポレオンの登場で社会のすべてが「一変」したのではなく、すでに旧体制下か大革命時から始まっていた変化が「継続」されたのであるという一点に集約される。これが、ポスト冷戦の新しい歴史学の波のようだ。たとえば、変化要因の中でも最大のものは亡命貴族・教会の財産売却によって生じた土地流動化と行政・司法組織の改革だろうが、これについて著者はこういう。
「ナポレオンは、事態のこのような展開を遺産の一つとして受け継ぎ、革命期の土地処分に対して、これを『既定事実』と受けとめ容喙(ようかい)しないよう、慎重な態度を持したのである。彼はまた、行政官と司法官の処遇についても、同様の現実主義策を採ることになる。
彼らの多くは、かつてはブルボン朝に仕え、その後は革命期のさまざまな議会で議員になり出世街道を歩んできた人たちであった。ナポレオンが受け継いだ遺産と、ナポレオン自身の業績とのあいだの太いつながりが、ここにも見られる」
これは、ナポレオン登場で世界が一変したとするロマンチック史観に対する良き解毒剤となる。例えば無一物の若者が軍隊で才能と勇気を武器に一気に将軍にまで上りつめるというナポレオン軍の神話は将校団の出身階級と昇進基準の分析から次のように解体される。
「それ(大陸軍将校集団についてのナポレオンの構想)は、旧貴族と有能なブルジョワジーを混ぜ合わせ、帝政、名士という新階層を生み出そうという構想だったのである。ナポレオンが理想としたことは、名誉を重んじる旧来の倫理観と、金権を是とする新来の信条とを結合させ、それを重要な選別基準とすることだった」
つまり、ナポレオンの軍隊は「名誉の軍隊」であったよりも、勲章や報酬に敏感な軍隊であったのだ。では、ナポレオンはどんな報酬を与えたのか? 帝政貴族という爵位だけではなく、金銭的な報酬が主だったが、その財源はといえば、じつは、亡命貴族の没収財産ではなく、イタリアやドイツの征服地から搾取した土地・資産からなっていた。亡命貴族の財産は、意外にも、貴族自身が様々な抜け道を使って買い戻していたのである。
さらに、著者はナポレオンの聖域である軍事的栄光にも見直しを迫る。「ナポレオン自身が戦場で手にした成功には、なにかその場しのぎの結果だった、という印象がぬぐいきれない」。すなわち、ナポレオンの勝利は綿密な作戦計画によるのではなく、戦場における実践向きの直感によるものであり、その証拠に「戦術面でナポレオンが敵に対して持っていた優位性は、時代が進むにつれて低下していったようにも思われる」。
しかし、こうしたナポレオン神話の解体に対しては、次のような反論が可能かと思われる。将官クラスは欲得ずくだったかもしれないが、兵士クラスは純粋であったと。
ところが、これに対しても著者は冷厳な事実を用意している。貧困層の出身であった兵士は愛国心に燃えていたどころか、徴兵逃れや脱走を試みようとあの手この手を使ったのだと。実際、脱走兵と徴兵忌避者は全兵員の五分の一に匹敵していた。
こうした脱走兵や徴兵忌避者は山野に逃げ込んで山賊となったが、その捜索・逮捕のために生まれたのが国家(帝国)憲兵隊である。この帝国憲兵隊は脱走兵・徴兵忌避者がいなくなっても、農村地方の治安維持機構として生き残り、現在に至っている。国家憲兵隊こそは「ナポレオン支配が残した遺産の一つ」なのである。
ナポレオンの遺産としては他に民法典があるが、これも「部分的に先んじてあった革命期の土地諸法と司法改革を」、秩序、画一化、権威主義といったナポレオン帝国の支配原理に見合うよう「再定式化した」ものに過ぎなかった。
いずれにしろ、変化は一朝一夕に起こるのではなく、前時代の財産を基盤にしているという非ロマンチックな「継続」史観の典型がここにある。この意味で、本書はバルザックの『人間喜劇』の細部を読み解く最良のハンドブックの一つとなるだろうし、スタンダールを脱構築化するための武器となるにちがいない。(杉本淑彦、中山俊・訳)


歴史のアマチュアとして大いに不満なのは、日本には、様々な学説を要約・整理して「いま、どんな学説が台頭し、新たな論点を提起しているのか」ということを素人にもわかりやすく解説してくれる学術的概説書がないことである。狭い範囲の専門書か、さもなければ通俗概説書しかない。この点、英語圏には、ロバート・ダーントンのように様々な学説の解説を行いながら、その比較・判定を通して、歴史の問題点を的確に教示してくれる歴史家がいるので、たいへんにありがたい。著者もそうした一人らしく、ナポレオン帝国は果たしてフランスに根源的な変化をもたらしたのか否かという点について、軍隊、文官組織、法制、経済、文化などの面でのバランス・シートを作りあげ、ナポレオン研究の現状についての的確な見取り図を書き上げている。
その結論は、ナポレオンの登場で社会のすべてが「一変」したのではなく、すでに旧体制下か大革命時から始まっていた変化が「継続」されたのであるという一点に集約される。これが、ポスト冷戦の新しい歴史学の波のようだ。たとえば、変化要因の中でも最大のものは亡命貴族・教会の財産売却によって生じた土地流動化と行政・司法組織の改革だろうが、これについて著者はこういう。
「ナポレオンは、事態のこのような展開を遺産の一つとして受け継ぎ、革命期の土地処分に対して、これを『既定事実』と受けとめ容喙(ようかい)しないよう、慎重な態度を持したのである。彼はまた、行政官と司法官の処遇についても、同様の現実主義策を採ることになる。
彼らの多くは、かつてはブルボン朝に仕え、その後は革命期のさまざまな議会で議員になり出世街道を歩んできた人たちであった。ナポレオンが受け継いだ遺産と、ナポレオン自身の業績とのあいだの太いつながりが、ここにも見られる」
これは、ナポレオン登場で世界が一変したとするロマンチック史観に対する良き解毒剤となる。例えば無一物の若者が軍隊で才能と勇気を武器に一気に将軍にまで上りつめるというナポレオン軍の神話は将校団の出身階級と昇進基準の分析から次のように解体される。
「それ(大陸軍将校集団についてのナポレオンの構想)は、旧貴族と有能なブルジョワジーを混ぜ合わせ、帝政、名士という新階層を生み出そうという構想だったのである。ナポレオンが理想としたことは、名誉を重んじる旧来の倫理観と、金権を是とする新来の信条とを結合させ、それを重要な選別基準とすることだった」
つまり、ナポレオンの軍隊は「名誉の軍隊」であったよりも、勲章や報酬に敏感な軍隊であったのだ。では、ナポレオンはどんな報酬を与えたのか? 帝政貴族という爵位だけではなく、金銭的な報酬が主だったが、その財源はといえば、じつは、亡命貴族の没収財産ではなく、イタリアやドイツの征服地から搾取した土地・資産からなっていた。亡命貴族の財産は、意外にも、貴族自身が様々な抜け道を使って買い戻していたのである。
さらに、著者はナポレオンの聖域である軍事的栄光にも見直しを迫る。「ナポレオン自身が戦場で手にした成功には、なにかその場しのぎの結果だった、という印象がぬぐいきれない」。すなわち、ナポレオンの勝利は綿密な作戦計画によるのではなく、戦場における実践向きの直感によるものであり、その証拠に「戦術面でナポレオンが敵に対して持っていた優位性は、時代が進むにつれて低下していったようにも思われる」。
しかし、こうしたナポレオン神話の解体に対しては、次のような反論が可能かと思われる。将官クラスは欲得ずくだったかもしれないが、兵士クラスは純粋であったと。
ところが、これに対しても著者は冷厳な事実を用意している。貧困層の出身であった兵士は愛国心に燃えていたどころか、徴兵逃れや脱走を試みようとあの手この手を使ったのだと。実際、脱走兵と徴兵忌避者は全兵員の五分の一に匹敵していた。
こうした脱走兵や徴兵忌避者は山野に逃げ込んで山賊となったが、その捜索・逮捕のために生まれたのが国家(帝国)憲兵隊である。この帝国憲兵隊は脱走兵・徴兵忌避者がいなくなっても、農村地方の治安維持機構として生き残り、現在に至っている。国家憲兵隊こそは「ナポレオン支配が残した遺産の一つ」なのである。
ナポレオンの遺産としては他に民法典があるが、これも「部分的に先んじてあった革命期の土地諸法と司法改革を」、秩序、画一化、権威主義といったナポレオン帝国の支配原理に見合うよう「再定式化した」ものに過ぎなかった。
いずれにしろ、変化は一朝一夕に起こるのではなく、前時代の財産を基盤にしているという非ロマンチックな「継続」史観の典型がここにある。この意味で、本書はバルザックの『人間喜劇』の細部を読み解く最良のハンドブックの一つとなるだろうし、スタンダールを脱構築化するための武器となるにちがいない。(杉本淑彦、中山俊・訳)

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仕事で地方の旅をして、車窓から何げなく外を見ていて、突然、素晴らしい景色が現れることがある。はるか下の方に、濃い青の水を湛(たた)えている渓谷を見かけると、思わず見入ってしまう。風景を見る旅をしたいなと、その時は思うが、忘れる。
そうした旅に誘う本が、現れた。楽しむ風景は、川、海、山、花であり、それぞれに三つの路線が、数多くの美しいグラビアとともに紹介されている。行ったことがあるのは、高山本線、山陰本線、上越線、御殿場線で、思い出して見る。
絶景に突然ぶつかるのは楽しいことだが、求めて行くとなると、見逃すと悔しい。右左どちらに現れるか、ラウンジがある列車かなど、事前の調べが必要であり、その要点も示している。出掛けませんか。(
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新刊:『タイ事典』=日本タイ学会・編
日本のタイ研究者、タイをフィールドに活躍するルポライターらを総動員した最新タイの“手引書”。歴史や政治、宗教、経済などに加え、映画や音楽といったポップカルチャーの分野も充実させた。学者ら200人以上が参加する「日本タイ学会」が、創立10周年記念事業として企画した。
同種の事典としては、1993年刊行の「タイの事典」(同朋舎出版)があったが、すでに絶版。本書からは、この間約20年に進歩したタイ学の“今”が見て取れる。専門家だけでなく、タイや東南アジアに興味のある一般読者にも最適。気になる言葉について知るための事典であるが、巻頭から順に読んでも、開いたところから読み始めても楽しめる。巻末の統計・資料も充実。(
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『ダラエヌールの子供たち』=伊藤和也・著
アフガニスタンで農業支援や医療活動をする福岡市のNGO「ペシャワール会」の元職員で昨年8月、武装集団に拉致、殺害された伊藤和也さん(当時31歳)の写真集。
伊藤さんは、03年末から事業に参加。作業の傍ら写真を撮り始めた。本書には、その中から95枚を会報への寄稿などと共に収めている。志望動機に「経験・知識ともに不足していることは否定できません。ただ私は、現地の人たちと一緒に成長していきたいと考えています」とつづり、再び緑豊かな国になるよう願った伊藤さん。写真は、現地の人たちと距離を縮めていった一日一日の記録でもある。
子供たちがカメラに向けた、はにかみや和やかなまなざしが、伊藤さんの人柄をも映し出している
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